嫌というほどの苦労を経験しながらも、 何とか礎は築いた。
だから、 これから平戸で農業をやっていく人には、
少しでも楽しく続けてもらいたいのです。
イチゴ農家
大浦 正巳
おおうら・まさみ|昭和30年1月生まれ。
『平戸いちご部会』の部会長を長く受け持つ。
『長崎県いちご部会』部会長も歴任した、 平戸イチゴのイノベーター。
革命のはじまり
今や魚貝類から、牛肉や野菜・果物の産地として全国に知られる平戸だが、かつては牛と米が主流で、イチゴはおろか、野菜もほとんどなかった。これに危機感を覚え「もっと儲かる物を作らんと、平戸の農業はダメになる。どげんかせんといかん!」と、一石を投じた男…彼こそ平戸でイチゴ革命を起こした大浦さんだ。
平戸→諫早→島原そして
平戸島の南部に生まれ育ち、実家の農業を継ぐために諫早の農業高校と農業大学校を自ら選択。卒業後は平戸に帰ることも考えたが、縁あって、島原半島の『なんこう農業協同組合』(現『JA島原雲仙』)で営農指導員として働く事に。当時から島原は、馬鈴薯・メロン・トマト等の野菜の産地で、特にイチゴは長崎県でも3分の1の面積を占める程で、この地で経験を積むことにより、将来、平戸の農業へと繋ごうと考えての事だった。
島原での営農指導員生活を5年程過ぎた頃、これから施設園芸を始めようする平戸農協からの視察に立ち会う事となる。
その際、平戸農協職員から「平戸に帰ってきて、施設園芸を教えてくれんやろうか」と熱烈なオファーが。ちょうど島原のお嬢さんと縁談がまとまっている頃で、すぐには難しいが、農協職員の熱意と、平戸の農の活性化のために、帰郷を決意していた。
苦悩の末の決断
平戸に戻ってからは、「全部ゼロからで、正直、帰らんならよかった」と言うほど、苦労続きだった。
当時の平戸は、施設園芸の方法でメロン栽培が始まったばかり。島原での営農指導の経験を積んではいたが、25歳の若年の進言に耳を貸さない農家さんも多く、指導・説得に奔走する日々だった。数年たっても期待するほどの収益が上がらず、裏作にトマトを作るなどの手も尽くしたが、台風など自然災害の打撃を度々受け、メロンは断念した。
悩んだ挙句、「ハウス・機材などに多額の初期投資が必要だが、老若男女の需要があり、価格も安定している。やるしかない!」と、イチゴ栽培へと舵を切った。昭和62年の事だった。
地域と家族を背負った転身
平戸のイチゴ栽培は5名程の農家から始まった。大浦さんは島原時代に経験があったが、他は皆初心者。当然時間はかかったものの、大浦さんの熱心な指導の下、5年後には徐々に面積も人数も増えてきた。しかし、「まだまだ増やさんと、他とは渡り合えん…。自分も同じ立場でやるしかない」と、約20年務めた農協を辞め、専業農家を始めた。「当時42歳で、3人の子どもに一番お金が要る時。子どもには『お父さんは子どもの事を考えてない』って言われて苦しみました。でも転身を失敗にはしたくなかったし、私の結果次第で、平戸の農業も変わると思ったけんですね」と、当時を振り返る。
農協を退職後は『平戸いちご部会』部会長に就任。関係者全員が率先して楽しくイチゴを作れる体制づくりから始め、それが功を奏し、生産者同士が切磋琢磨し協力し合う、小さくも強力な『チーム平戸』を築いた。確実に成果を上げる大浦さんの功績は県内の各いちご部会にも轟き、県内全生産地を取りまとめる『長崎県いちご部会』の部会長にまで就任した
我がイチゴ人生に悔いなし
「苦労はしたけど、諸々の決断に悔いはありません。勤め人と農家の2つの人生を歩めましたし。今まで5人の研修生を受け入れましたが、皆に優しく厳しく、人生論も語りました。そして『自分の仕事に誇りを持ってやるんだ』と諭しました。研修生たちは皆自立し、『イチゴを選択して悔いは無い』と続けてくれています。その言葉は、平戸でイチゴを開拓した私にとって、何よりの宝。これからも楽しく続けてくれよと願うばかりです」。